ornithkendorist's blog

剣道上達日誌ーブランク20年中年剣士の奮闘譚ー

剣道上達日誌130206(07)

この日の稽古をうけ、攻めについて論考したのですが、保存に失敗してしまい、改めて書ました。

SE稽古会(自宅から5分のS市立S高校剣道場)

まず、TDB高校生男女1人と稽古。男子とは基本打をつきあってもらった。この日の基本打にはあまり違和感はなかった。

IT先生、TD先生、SD先生、NH先生にお願いすることができた。TD先生はABN系IM高校OBでもある。お褒めをいただけた。SD先生は後述の攻めの重要さを身をもって教えてくださった。問題の稽古である。IT先生は、稽古始まりしばらくは、動きのあるパターンで仕掛けてきてくださった。このような場合は対応はあまり苦労しない(これは浅はかであると後で気がつくことになる)。先生の稽古は途中からパターンが代わり、掛かり稽古を思わせる関係性になった。しかし、そうではない。先生は、残心を示されることがあった。この時点で混乱である。稽古終了後、先生『攻めがない。』。私『はい(自分の動きを反芻しながら)』。先生『NH先生との稽古を見ていたよ。 動きに合わせているだけだ。』。私『はい(まだ気がつかない)』。IZ先生の最初の動きの多い打突。これに私は対応できると思っていた。つまり自分で仕掛けていたのではなく、先生の動きを読んで打突していたにすぎないのである。この日は当てることができたと思っていたのだ。あたっただけなのに。自ら攻めて動かして打ったのではないにも関わらず。つまり、先生はそのような私の慢心をズバリと突かれたのだ。

NH先生はわたしの前にMM先生と稽古をされていた。MM先生が最初に稽古をされていると見取り稽古としてとても良い。以前に右足の意識について説いてくださったのである。見ているとしっかり左足加重で右足は少し自由な印象で動きにバリエーションがある。すぅーと入って腰から面に伸びている。真似しようと稽古に臨んだ。IZ先生は、私とNH先生の稽古を見ていてくださり、コメントをくださった。先生の印象と私の試みは、明らかに異なるものだったである。攻めることの意味が良く分からなくなった(もともときちんと言葉にしたことがないが)。

そこで剣道の教科書の登場だ。『剣道を知る辞典』。20「攻めと先」P70がある。「攻める」ことは、相手と構えた均衡の状態から、有効打突に結びつけるために、自分が有利に打突の機会を見つけるための手段である。とある。いわゆる三殺法について記述されている。剣先(構え)によって攻める「剣を殺す」。できたのか?はじいたり、捲いたり、張ったりしたつもりだった。技によって攻める「技を殺す」。できたのか?相手の出鼻を挫くことはできなかったと思う。得意技を封じたか?どうか?できれば、稽古をこちらのペースで進めることができるのだが。気(気位)によって攻める「気を殺す」。できたのか?気力で圧するとは抽象的なのだが、気で押されると思わされる時が確かにある。これは自分に対する自信の現れであり、自らよりも上手の先生にかかる時には難しい。それを乗り越えるのがまさに稽古なのだと思うが、今日は傍からは気が見えなかったのだろうと思う。 実のところ、自信と返し技の多様さには強い関係があり、そこに横たわるのが年齢とブランクなのだ。それはまた。