ornithkendorist's blog

剣道上達日誌ーブランク20年中年剣士の奮闘譚ー

たまには考えを整理する

私と同じような剣道のレベルの人に、おそらく共通の悩みは、懸待一致。ある先生は、「懸かるばかりではなく、攻めて引き出して、そこを打たないとだめだ」。ある先生は、「攻めて打たなくてはだめだ」。相手によって対峙の仕方を大きく変える程に、引き出しを持っていないので、こちらの変化とは思えない。相手の受け取り方が違うだけなのか?この頃、どのように稽古で相手対しているかというと(実現できているか、どうかは別として)、先を懸ける。気持ちも体も。特に右足の出し方に変化を付けつつ、相手の目を見て、気持ちの動きを察するようにする。気持ちが引けている場合は、更に攻めて打突する。もし、攻め返された場合は溜めを持って出頭を狙う様にする。おそらくごく普通の攻め口だろう。これに対し、相手の感じ方が変わるのはなぜだろうか。相手は、ほとんどの方が7段で、みな十分に稽古を積んで、一家言ある方々だ。それでも運動能力には差があるのだろうから、身体的な対応能力に依存している可能性がある。まず、「攻めて打たなくてはだめだ」と言われる先生は、どちらかというと若い。逆は、私の一回りくらい上の方々だ。私の打突が良く当たる場合は、攻める様に指摘される。

全剣連の剣道学科審査の問題例と解答例(初段〜五段)にもある通り、基本的かつ重要な概念なのだろう。抜粋すると、21「懸待一致」について説明しなさい、は、「懸」とは相手を攻めたり打ちかかる攻撃の意味で、「待」とは相手の動きを冷静に見極めながら出方を持つ意味である。懸かると待つ葉は表裏一体をなすものであり、攻撃中でも相手の反撃に備える気持ちと態勢を失わず、受けに回ったときでも常に攻撃する気持ちでいることが大切である。と、解答される。

これに照らすと、私の取り組み方はあながち間違ってはいなさそうに思える。しかし、評価が人それぞれ、正反対になるのは、何故なのだろうか。ある先生に相談したところ、「溜めは、待っていると思われることはあるよ」と。「溜めがあれば美しい剣道になる」。攻めつつ待ち溜めて打突ということになろう。そのバランスが常に中心に小さな振れで行きつ戻りつつ、そのように考えればいいのか。

MO先生に仕込んでいただいた剣道は、とりも直さず合気の剣道だ。合気の稽古にならない場合でも、努めて気持ちを見せること。打突できたとしても、打突されたとしてもそれはそれとして受け入れる。その積み重ねだった。

懸待一致と合気は、その関係が解けると楽になれるかな。